糖尿病を長年患っていると、肉体的にも精神的にもしんどくなっちゃう時っていうのはやっぱりある。っていうか往々にしてある。ありすぎる。 事実俺自身も、 「 こんなに毎日がしんどいなら、人生からリタイアしちゃった方が楽になれるんかなぁー… 」 なーんてことを考えてた時期があった。 でもね、なにか明確なきっかけがあったってわけでもないんだけど、俺はある時期にこう決意したんだ。 「 生きよう。生きていこう。 」 って。 "人生" とはつまり "ままならないこと" だ、って俺は思っている。 毎日の生活の中で、自分の思い通りになることなんて見つけ出すことの方が大変なんじゃないかって思う。 でもね、それでもね… それでも人は、自分の置かれている環境を自分自身の手でどんな風にでも変えていくことが出来る。 「 でも今までがこうだったんだから、今さらそんなことをしたってどうせ… 」 なんてことを気に病むのは、本当に時間の無駄以外の何者でもない。 明日から変えていくことが出来るんだ。いや、たった今から変えていくことが出来るんだ。 新しい自分自身へ、本当に自分が望む自分自身へ。 生き辛い環境だったら自分が生きやすい環境に変えていけばいいんだ。 それは自分から変わろうとする意識を持っている人間であれば、誰にでも意外なほどに簡単に出来てしまうことなんだ。 新しい自分自身へ、本当に自分が望む自分自身へ。 生きよう。生きていこう。 ■トップ
ある日の放課後、俺は帰り際に近所のコンビニに立ち寄った。スナック菓子やらジュース、ジャンクフードを買い込み、俺は自転車に乗って下宿先に帰ろうとした。 「 ……… 」 と、その時、コンビニ前に置いてあった緑色の公衆電話 ( この頃にはまだ携帯なんてものは無かった ) がふと俺の目に留まった。 「 ……… 」 普段はめったなことでは実家に電話をかけようなんて思いもしないのに、その時は何故か無性に誰かの声が聞きたくてしょうがなかった。10円玉を入れて俺は実家の番号をプッシュする。 「 …ピ、ピ、ピ…プルルルルル…プルルルルル… 」 「 …ガチャ。もしもし? 」 電話口に出たのは祖母だった。両親はどうやら2人とも仕事に出ているようだった。 「 あ、もしもし。○○だけど… 」 ( ← 俺の名前ね ) 「 ○○!○○か!? 」 「 うん… 」 久しぶりに孫の声を耳にした祖母の声からは嬉しさがにじみ出ていた。そして嬉しさを感じている反面、こんな時間に突然実家に電話を掛けてきた俺のことを心配してか、祖母はこんな風に口にした。 「 …どうした?なんかあったのか? 」 男言葉の混じった、田舎訛りの抜けない祖母の言葉。俺はついこの間までその言葉をすぐそばで耳にしていたはずだった。なのにその時は祖母の言葉一つ一つが何故か妙に懐かしく感じられて、俺は切ない気持ちで一杯になってしまった。 「 ……ぅっ…… 」 誰かの優しい言葉を耳にしたのは本当に久しぶりのことだった。 昔から変わらずに、真っ直ぐな性格の祖母。そしてわずか数ヶ月足らずで本当にどうしようもないぐらいに落ちぶれてしまった自分。俺は周囲の目も気にせずに、電話口で嗚咽を漏らして…泣いた…。 「 ○○どうしたんだ?大丈夫か? 」 「 ぅぅぅっ…ぅぅっ… 」 俺はくやしくて泣いた。自分のふがい無さが情けなくて泣いた。 「 どうしたんだ?どうしたんだ? 」 電話口で泣きじゃくる俺のことを心配する祖母。頬を伝う涙はなかなか止まろうとはしなかったけれど、心配する祖母の声を耳にして、俺は早くこの涙を止めなければならないと思った。 「 …あ、うん。大丈夫。あの、今度の日曜日に帰るから… 」 「 そうか!?帰ってくんのか!?待ってるからな!それじゃ…ガチャ、プー、プー、プー… 」 短い3分間が終わった。 『 …このまんまじゃ…ダメだ。 』 俺はそんな風に思って、初秋の夕刻に淡く煙る茜色の空を真っ直ぐに見上げた。 "言葉" なんてものは実体を伴わない、意外と軽薄なものだ。体裁だけを取り繕って、本心からは乖離している言葉なんてものはこの世の中にはあまた溢れている。 それでも…それでもあの時の祖母の言葉は、俺に確かに前に進む勇気を与えてくれた。前に進む力を与えてくれた。迷走を続ける俺の目の前に、一筋の道を照らし出す確かな光を灯してくれた。 ―― 心の底から ・ 本心から発せられた言葉というのは、助けを求めている誰かを導き ・ 未来への光を灯し出す揺ぎ無い力を持っている。 上っ面の表層的な言葉ばかりが溢れるこの世界だけれど、俺は今でも、言葉というものが持つそんな不思議な力を切に信じていたいと思っているんだ。 ■トップ
部活を辞めた後は、一人悩みに苛まれる日々が続いた。 "なんで俺ってこうなんだろう?なんで俺ってダメなんだろう?" 若かった俺はその現実を真正面から受け止めることが出来なかった。ダメな自分を認めてあげることが出来なかった。自分自身を他の誰よりも一番労わってあげることが出来るのは、他ならない自分自身しかいないっていうのに…。 俺は全てがどうでもよくなって、酒 ・ タバコ、そして暴飲暴食を繰り返した。はけ口がそれしかないっていうのも本当に悲しいことなんだけど、当時の俺はそんな風にして出口の無い迷路をジタバタすることしか出来なかった。 学校もよく休むようになっていた。たとえ学校に行ったとしても、気の合う仲間とツルんで授業をサボることがしょっちゅうあった。あの頃の俺は本当に、徹底的に、完璧なまでにダメだった。 「 あ〜〜あぁ… 」 そしてこの頃に俺は椎間板ヘルニアを患った。腰の辺りが痛くてまっすぐに立っていることすらもままならないような状態が暫く続いた。整骨院などに行って診察してもらうも詳細な原因が分からず、割と大きめな病院で診察を受けたところ椎間板ヘルニアと診断された。治療を続けていったおかげで、ひと頃に比べれば幾分かだが痛みは緩和された。だけど… 「 あーあぁ、糖尿病で体はなんかダルいし、好きなモンも思うように食えないし、腰が痛くてまっすぐに立つことも出来ないし、何よりも俺自身がダメダメだし… 」 ドン底だった。 ■トップ
高校に入学するとすぐに俺はサッカー部に入部した。 "絶対レギュラーになってやる!" 入部当時の俺はそんな風に息巻いていた。 …ところが、だ。俺は入部してわずか5ヵ月足らずでサッカー部を辞めていた。 辞めた理由は色々とあった。人間性の育成以上に成果により大きな比重が置かれる高校の部活動においては、自身の体のことはもちろん切実な悩みだった。ただそれ以上に、俺がわずか5ヶ月足らずで部活動を辞めた最たる理由は、率直に言って "周囲に溶け込むことが出来なかった" ためだった。 小 ・ 中学校時代までは、周りも幼い頃からの知り合いばかりだったし、それほど意識をしなくとも何となく自分の居場所めいたところを見つけ出すのはたやすいことだった。 ところが高校に入学してからというもの ( これはもちろん元来の性格に由来する部分も大きいのだろうが )、俺はなかなか自分の居場所というものを見つけ出すことが出来なかったように思う。 "俺って…一体なんなんだろ?" 理想と現実との狭間で一人やきもきとしながら、俺の生活は次第に荒れていった。 ■トップ
高校入学と同時に、俺は親元を離れて下宿生活をするようになった。 実家と高校との距離的な隔たりが下宿をする主な理由だったのだが、その頃の俺の内心には "早く自立したい" という気持ちが強くあった。 金銭的な面ではもちろん親にかなりの負担をかけることになってしまったのだが、それでも親は俺の意向を快く受け入れてくれて、俺は15歳で一人暮らしを始めた。 大家さんの自宅と下宿用の建物とは玄関が別個に設けられており、大家さんからの干渉をほとんど受けることなく当時の下宿生 ( 俺が入った時には7、8人はいたと思う ) は割と自由な生活を送っているように見えた。 そして実際に下宿生活をスタートしてみると、思っていた通り、ほぼ何もかもが自分の思うがままだった。したいことがしたい時に出来る。そんな生活だった。それでも高校入学当時の俺は、運良く進学校と呼ばれている高校に入学出来たこともあってか、歳の割には ( いや、歳のせいで、かな… ) 割と高い志を持っていたように思う。 "勉強も部活も絶対1番になってやるんだ!" 今まさに白羽を生やして飛び立とうとしている、無垢な理想。 そう、その頃の俺の理想は今にして思えばホント呆れるぐらいに、純真無垢そのものだったんだ。 "挫折" なんてものがこの世の中に存在するだなんて、そしてそれがこの先自分自身の身の自由さえも奪ってしまうことになろうだなんて、当時の俺は夢にも思っていなかったんだ。 ■トップ
中学に入学するとすぐに、俺はバスケ部に入部した。 小学校のサッカークラブの時と一緒で、練習前、あと自分で体感的に低血糖っぽいと感じた時に補食を行っていた。 小学校時代は職員室で補食を行っていた ( たまに同級生に目撃されて、"あ、オヤツ食ってる!いいな!" とか言われたw ) のだが、中学校に入ってからは保健室で補食をするようになっていた。 よく食っていたのがいわゆる一口チョコを3つほど。カロリー換算してみると、大体75〜80kcalぐらいだったのかな?その頃は何も考えずに "低血糖になったらとりあえずチョコ3つ" って感じだったけど、大体まぁいい感じの摂取量だったと思う。 で、保健の先生が小学校時代のオバアちゃん先生とは打って変わって、若くて結構カワイイ先生だった。バスケの練習中に低血糖っぽくなってくると、俺は "大丈夫かな?" なんて心配になる反面、なぜかルンルン気分になっていた(^^; 俺が病気だということは先輩方はモチロン同級生も知らなかったから、部活を抜ける時には俺は顧問の先生の許可を取っていた。 部活を抜けてきた時には、保健の先生はチョコじゃなくてスポーツドリンクを差し出してくれた。何気に嬉しい気遣いだった。低血糖じゃないのに練習を抜けてジュースを飲みに行った事なんて俺は無い。無いと思う。無かったはずだ。無いと信じたい。ねぇ、誰か無いって言って。ある。 ( キャーッ! ) 中学生の頃はひどい低血糖だとか高血糖を起こしたことは無くて、まぁ割と平和な毎日だった。 でも次のステップ、高校生活のスタートと同時に俺の生活はそれまでのものから一変した。 ■トップ
入院してから2ヶ月ちょっと、やっとのことで俺は退院出来ることになった。 これから自由の身になれるかと思うと、俺は嬉しくて嬉しくてたまらなかった。 あそこに行きたい、あれをして遊びたい、あれが食べたい、これが食べたい…。 毎日の食事制限やインスリン注射 ・ 血糖コントロール、入院前までのような生活は送れなくなっていたにしても、俺の頭の中はやりたいことで一杯だった。 当時の俺は少年サッカークラブに入っていた。運動の前に補食を行う等の必要はあったけれど、それ以外には他の子たちとなんら変わることなく練習に参加して、病気になって以降、5年生から6年生になるまでの丸2年間、センターフォワードのレギュラーポジションをつとめた。 周囲には俺が糖尿病であることは隠し続けていたままだったけれど、俺の心の中には "病気だからって他の奴らに負けたくない" という強い思いがあった。 この気の持ち方っていうのは実は意外と重要で、"自分はどうせ病気だから…" という気持ちでいると、この病気は間違いなく悪化の一途を辿る。 "負けたくない" そんな風に自分自身の気持ちを高揚させることこそが、この病気の悪化を防ぐ最良の薬なんだと俺は今でも強く信じている。 周囲に負けたくないと願う気持ち、そしてなによりも自分自身に決して負けたくないと願う気持ち ―― それは本当に骨の折れるしんどいことなんだけど、糖尿病患者は普通の人以上に精神的にも肉体的にも強くあらねばならない ( 毎日の治療に耐えている人達は既に十分に強い精神力を持っているとは思うけれど )、と俺は常々思っているんだ。 ■トップ
入院中に何度か、同級生が見舞いに来てくれたことがあった。 その日も向かいの家に住む同級生の子が、ご両親と一緒に見舞いに来てくれていた。久しぶりに会って話をする俺たち。程なくすると採血の時間になったために俺は処置室へと向かった。 採血時に血糖値を測定したところ俺の血糖値は極端に低かった。それまでにもう何度か低血糖は経験していたので、俺は別段驚くことも無く処置室で補食を済ませると、病室に帰るなり母ちゃんにこんな風に口にした。 「 やー、また低血糖だったよー。まいったねー。 」 俺はヘラヘラしながらそんな風に言ったんだけど、母ちゃんは何故か非常に決まりの悪そうな顔をしていた。俺の頭の中は?マークで一杯だった。「 あれ?俺、なんかマズいこと言った…? 」 同級生家族が帰った後で母ちゃんが言うには、どうやら俺は表向きには糖尿病ではなくて胃潰瘍かなんかの胃の疾患で入院していると周囲に告げられていたらしいのだ。母ちゃんが決まりの悪そうな表情を浮かべたのはそのためだった。 どうしてそんなことをするのか、当時の俺は理解することが出来なかった。 「 俺は糖尿病じゃん、なんでそれを隠す必要があるの? 」 今にして思えばその病気を隠したがっていた親の心理も分からないでもない。狭い田舎だ、「 あそこの家の息子が糖尿病になって... 」 なんていう風に噂が広まるのも早い。周囲には事実をある程度ボヤかした病名を告げておいた方が対応も何かと楽だったのだろう。 かく言う俺自身も、今現在に至るまでどちらかといえばこの病気のことを周囲に対して隠す傾向にあった。 ただこの病気は周囲の理解と協力が無ければ、結構深刻な事態を引き起こし得る怖い病気だ。もちろん言い出しにくいことではあるけれど、可能な限りカミングアウトはしておいた方が良いと俺は思っている。 これまでにカミングアウトをして何か損をしただとかいう経験は俺は殆ど無い。周囲は自分が思い描いていた以上にすんなりとその事実を受け入れ、出来得る限りの協力を惜しまないはずだ。 一人で抱え込まずに周囲に理解と協力を求めること ―― 血糖値のコントロールももちろん大切だけれど、この病気ではそのことが実はなによりも大切なんじゃないかって俺は思っている。 ■トップ
病室の窓からは眼下に広がる街の景色が一望出来た。夜になるとゆっくりと点滅を繰り返す電波塔の赤い光。そのやさしい光の点滅をボンヤリと眺めるのが俺は好きだった。 病院というのは本当に特殊な空間だ。そこはほぼ完全に世間から隔絶している。そして期せずしてそんな状況に置かれると、人は否応無く不安感を覚えることになる。 自分は普通の人間とは違うのだろうか? 自分の未来、この先には一体何が待ち受けているのだろうか? 小4の俺もそんな不安を覚えていたように思う。拭い去ることの出来ない漠然とした不安感…。 冒頭にも書いたように、俺が入院していた病室の窓からは街の姿を一望することが出来た。 電波塔の赤い点滅は、ゆるやかながらも確かに過ぎて行く時の流れを俺に感じさせてくれた。 目の前に広がる街の風景は、自分もこの世界の片隅にちゃんと属しているんだという実感を俺に持たせてくれた。 病院という特殊な環境下に於いて、入院患者のメンタル面をケアする上で大切なのは、社会との繋がりを直感的に感じさせ、その不安感を解消させること ―― そういう観点に於いては、その病院の造りは実はかなりのグッジョブだったんじゃないかな…なんて、今更ながらにそんな風に思う。
【 私信 】 Dさん ( スミマセン。この場では便宜的にこう呼ばさせていただきます。 )、丁寧なご感想のメール、本当にありがとうございました。 お返事のメールを返信させていただいたのですが、何度送っても何故か "送信エラー" になってしまい恐らくは俺のメールは届いていないかと思われますので、ちょっとこの場を借りてお返事をさせていただければと思います。 Dさんからのメール、本当に嬉しかったです。「 今後も日記を続けてほしい 」 という言葉、心に染みました。 サイトの方も拝見しました。温かい雰囲気が溢れる素敵なサイトですね。今後も更新を心待ちにしております。 色々なことがありますが、これからもお互いに頑張っていきましょうね。 それでは。 ■トップ
新年明けまして...あ、もうとっくに明けてる?こりゃ失礼。 ( ガチャピンの顔マネで ) 俺も今年で31。病気発症から21年になります。早いもんです。 もちろんこれまでの21年とこれからの21年は全くもって違うものになるんだろうなぁ…って意識はあります。そしてなんとなーくだけど覚悟めいたものもあります。 俺は基本ホントいい加減な野郎なんですが、今年も病気が悪化しないようになんとか注意を払って行ければと思っています。 このサイトもボチボチとだけどやって行きたいなぁと思っています。 んでは、今年もどうぞよろしく。 ■トップ
いやぁ2006年ももう終わりですね。本当早いもんです。 年末年始はとかく暴飲暴食なんかをしがちですから、みなさんご注意をば。 ( つーか、そう言ってるお前自身がイチバン心配だ… ) それではみなさま、良いお年を。 ■トップ
慣れない環境下での生活も、ひと月ほどが過ぎるとようやく落ち着きを見せてきた。 治療のおかげで俺は入院当時に比べればかなり元気を取り戻していた。病気になっているとはいえ元は元気なガキ、病室でジッとしているはずがない。 俺が入院していた病棟の1階部分には、総合受付やら外来やらがあってそれなりの広さがあった。夕食後、夜7時ぐらいになると人気が無くなり電灯も適度に落とされるので、俺はその広ーいフロアをこれでもかってぐらい全力で走り回っていた。 "運動療法" と言えば聞こえも良いだろう。ただ俺は自分の欲望の任せるままに、バカみたいに1階のフロアをグルグルグルグル走り回っていた。見る人によってはそれはきっと限りなく子供のオバケチックに見えていたに違いない。 "妖怪 ・ 1階グルグル" 体を動かすのは好きだったから、それは結構なストレスの発散になった。 人間は環境の生き物だ。徐々にパターンを覚え、その環境に適合していく。 そしていつかその環境はただ単に与えられるものではなく、自分自身の力で作り上げていくものに変わっていく。 人間は与えられた環境を自分自身の力で変えていくことが出来る。今の自分がいる場所、それは自分自身が望み自分自身が作り上げてきた環境、それに他ならないんだ。 そう、そういうことだ。 ■トップ
えーと、今現在俺が書いているのは今から20年前、10歳の頃に俺が1型糖尿病 ( 小児糖尿病 ) を患った時の様子です。 最初の方から読んでない人は、いきなり読んでもなんのこっちゃ分かりゃあせんよね? ここでちょっと一息。休憩。 犬の散歩なり、趣味の園芸なり、長州小力のモノマネなり、ひも無しバンジージャンプなりでちょいと息抜き(?)したあとに、またチョロチョロっと読んでもらえると嬉しいです。 ( ← 俺はどっちかっていうと、こんな感じのすっとぼけたテンションの文章のが実は好きだったりします。 ) 次回からまた小学校編書いていきますんでヨロシク。文体はちょい硬めだけどね。 ■トップ
点滴 ・ 採血 ・ 検査の数々もまあそうなのだが、入院をして俺の生活にもたらされた一番の大きな変化といえば、やはりインスリン注射を打つことになったことだろうか。 朝食前と夕食前、血糖値の上昇を抑止する目的で打つインスリン注射。 現在は毎食前と就寝前、1日に計4回のインスリン注射を当たり前のように打っているが、その当時に受けたインパクトにはやっぱり相当なものがあった。 「 え?1日に2回も注射をしなくちゃいけねーの?なにそれ? 」 その注射がなければ自分は生きていくことが出来ないという事実を知ったのは、それからもうちょっと後になってからのことだった。 当時の俺は看護婦さんにされるがままにインスリン注射を打たれていた。ただそれも徐々にではあるが自分で溶液を注入し、腕や足に自分で注射を打つというスタイルに変化していった。 "一番の主治医は自分自身" そんな意識を俺はこの頃から植え付けられてきたように思う。それは年齢の別に関係無く、糖尿病の治療を続けるに当たっては本当に必要不可欠な意識なのだ。 それ以来20年間に渡り、俺は毎日インスリン注射を打ち続けている。インスリン注射に絡む怖ーい経験もこれまでに何度かしてきたこともあるけれど、それはまぁまた別の機会に。 ■トップ
俺が入院することになったのは6人の相部屋だった。 俺の周囲を取り囲んでいたのは5人のフレッシュなオバアちゃんたち。後になって考えてみると、あれはきっと母親が寝泊りして俺の様子を見て看病をするのに一番適した環境が選ばれたんだろうな、なんて思う。 オバアちゃんたちは文字通りオバアちゃんオーラ全開で、それはそれはノホホーンとした雰囲気が病室全体を包んでいた。ただそれとは裏腹に、入院直後の俺の治療 ・ 検査は過酷を極めた。 一日何時間にも渡る点滴、3時間おきの採血、尿検査、そしてその他もろもろの検査。入院後数日にして俺の両腕は注射の痕やらなんやらで既にボロボロな状態だった。看護婦さんも採血の時に針を刺す位置に四苦八苦するといった感じだった。 あとやっぱりこれは相当大変だなぁと感じたのは食事に関してだろうか。キッチリとカロリー制限の施された食事、小学校4年生、一番の食べ盛りな時期に好きな物も食べられずに食事を制限されるというのはやっぱり大変なことだった。 肉体的にも精神的にも、正直言ってかなりキツかった。 ■トップ
糖尿病という診断を受け俺は即刻入院しなければならないということになったのだが、その病院には糖尿病専門の診療科が存在しなかったために、俺はそこから更に車で30分ほどかかる別の病院に入院することとなった。 ふるさとの村から車を走らせること1時間、立ち並ぶ巨大な建物 ・ 徐々に多くなっていく交通量…時刻は既に夕刻になっており、夕暮れ時特有の物寂しさと相まって俺は得体の知れない不安感に包まれていた。 そしてようやくのことで到着したのは地上7階建ての大病院。そんなデカい病院を見たのは生まれて初めてのことだったし、よもや自分がそんなところに世話になることになろうとは夢にも思っていなかった。 俺は不安で不安で仕方なかった。訳の分からない病気だと言われ、実家から遠く離れた都会の大きな病院に入院することになり、この先に一体何が待ち受けているのかもまったく分からない。 それは不安感というよりは "恐怖感" と表現した方が或いは適切だったのかもしれない。 それでも…それでもそんな恐怖の中で、俺がなんとか自分を保つことが出来たのは、母ちゃんがそばにいてくれたおかげだった。 当時10歳の俺が、その状況で信じて頼ることが出来たのは母ちゃんしかいなかった。俺の手をギュッと握り締める母ちゃんの手は、今までに感じたことが無かったぐらいに力強くて頼もしいものだった。 徐々に濃さを増してゆく夕闇。 今にして思えば、きっと母ちゃんは俺以上に不安で不安でたまらなかったんだろうな…なんて思う。 ■トップ
その日もいつものように学校で授業 ( 昼飯前だから3限目ぐらいだったと思う ) を受けていると、俺は突然どうしようもない脱力感に襲われた。 体に全く力が入らず、椅子に座っていることすらもままならないのだ。 「 あれ?なんだコレ?体がフワフワして…あれ?あれ?なんだコレ? 」 次の瞬間、俺は椅子からズリ落ちるようにして教室の床へと崩れ落ちていた。 「 少し…休ませて… 」 隣の席の子に対してそんなことを口にしたように記憶している。とりあえず意識を失うということは無かったのだが、極度の脱力感から俺は1ミリたりともその場から動くことが出来なかった。 「 先生!○○君が! 」 ( ← 俺の名前ね ) 隣に座っていた女の子がそんな風に叫んだ。その声を聞いた担任は慌てて ( たのかどうかを確認する余裕なんて俺には無かったけど ) 俺のことを抱きかかえて、保健室へと直行した。 保健の先生は相当歳の行っているオバアちゃん先生だった。とりあえず一通り検査みたいなことはしてくれたと思うが、詳細な原因なんて当たり前なんだけど分かるはずが無くて、とりあえず今のところ症状が悪化する様子も無いから、家の人に連絡して迎えに来てもらいましょう…みたいなことになった。 俺もこの頃には、先ほどの体調最悪レベルからは少し回復していて、「 お!帰れんの!?ラッキー♪ 」 ぐらいに思っていた。 で、家に帰って、病院行くにしてもなんにしても、まあとりあえずは昼飯を食べようってことになって、昼飯をムシャムシャ食べてみると… アラ不思議、体調は見る見る間に回復。 今になって振り返ってみると、俺が倒れたのは高血糖から来る意識障害とかそういうものだったんだろうと思うんだけど、昼メシを食べたらすぐに症状が回復したっていうのは、むしろ低血糖に近い状態だったんじゃないかという気もする。 で、まあ一応元気にはなったんだけど、やっぱり病院でちゃんと検査をしないとダメでしょうってことで、俺は母ちゃんと共に近所の病院ではなく車で30分ほどかかる町の病院へと向かった。 触診 ・ 尿検査 ・ 血液検査、一通りの検査を終えて俺に下された病名、それが、 ―― 小児糖尿病 初秋の午後、その日の空は皮肉なほどに気持ち良く晴れ渡っていた。 ■トップ
それからもしばらく俺の夜尿症は続いた。そしてそれが続くのと同時に、俺の体重は徐々に減少していった。 もともと太っている方ではなかったけれど、俺の体重は目に見えて明らかに減り続けていった。 ノドの渇き ・ 夜尿症 ・ 徐々に減り続ける体重。 「 …まさか、糖尿病じゃないだろうな? 」 半信半疑といった表情で父ちゃんがそんな風に口にした。 ガキの頃の俺はそれがどんな病気なのかなんて知りもしなかった。頭の中は?マークで一杯だった。 父ちゃんにしても、「 まさかこんな子供が糖尿病になるはずが… 」 という思いがあったのだろう。結局すぐに病院に検査をしに行くというのではなく、もうちょっと様子を見てからにしようということになった。 或いは子煩悩な父ちゃんは認めたくなかったのかもしれない。自分の子供が病気になってしまったというその現実を…。 結局その後も、「 なーんか調子悪リーなぁ… 」 なんて思いつつ、俺は小学校に通い続けた。 そして、とうとうその日は来た。 ■トップ
俺の体に変化が起き始めたのは小学校4年生、10歳になる頃だった。 小学校に上がる頃にはオネショなんてしなくなっていたはずなのに、この頃の俺は毎日のようにオネショを繰り返すようになっていた。 夕食後に異常なほどにノドが渇いて水をガブ飲みせずにはいられなくなる、そして翌朝になるとお決まりのようにオネショをしている、「 小4にもなって… 」 と毎朝自己嫌悪に苛まれる、この繰り返し。 ただこの時はまだこれぐらいの症状だったから、俺自身は勿論、親も俺の体の変化に気付いてはいなかった。 今にして思えば、異常なノドの渇きと頻尿というのは高血糖時に特有の症状なんだよね。でもその頃はそれが病気から来るものだなんて誰も思いもしなかった。 この頃は…結構苦しかったなぁ。風呂上りとかにノドがカラカラに渇いていても、オネショをしたくないもんだから水を飲むのも我慢してフラフラしてる。 今思えば何気に痛々しい姿だ。 でもそんなものは、実はほんの序章に過ぎなかったんだ。 ■トップ
俺は9歳の頃から、敷地内にある離れの部屋に兄貴と一緒に住むようになった。 別に家族仲が悪くなっただとか、決してそういうんじゃあ無い。 自分たちの秘密基地みたいな場所が欲しくなる…兄貴はちょうどそんな年頃だったんだろう。 で、おあつらえ向きに敷地内には誰も使っていない空き部屋が一つあった。兄貴が親にそこに部屋を移したいと言ったのに便乗して、俺もその部屋に一緒に住むようになったんだ。 親の目の届かない離れに住んでいたからといって、俺たちは別に人に言えないような悪いことをしたりだとか、そんなことは一切無かった。一緒にラジオを聞いたり、絵を描いたり、ゲームをしたり、プロレスをしたり、サッカーをしたり ( 室内でw ) …。 本当に仲の良い兄弟だったよなー、なんて今にしてみれば思う。 楽しい日々だった。 ■トップ
子供の頃の俺は、これといった病気をしたことも無い健康優良児だった。 家族の中にもこれといった病気を患っている者はいなくて、それこそ本当に健康を絵に描いたような家族だったと思う。 父ちゃん母ちゃんは本当に良く働く人だった。 母ちゃんは優しい人だった。俺は今の今まで、母ちゃんに口うるさくなんかを言われたりだとか、怒られたりだとかいう記憶が殆ど無い。 父ちゃんはちょっと子供っぽいところがあってたまーにキレちゃったりもしたけれど、それでも基本的には子煩悩な優しい人だった。 父ちゃん母ちゃんの必死さ ・ ひたむきさを、俺はガキの頃からそれこそ本当に目の当たりにしてきた。 「 子供は親の背中を見て育つ 」 なんてよく言うけど、本当その通りだなって思う。 必要なのは装飾に満ちた立派な言葉なんかじゃなくて、泥臭くてもいいから実際の行動で自らの思いを体現すること ―― 言葉にしなくても人に伝わることっていうのは、実は結構あったりするものなのだ。 ■トップ
俺が生まれたのは地方の片田舎の村。 最寄りのコンビニまでは車で15分、車という移動手段が無ければなんにも出来ないような、そんな絵に描いたようなド田舎の村に俺は生まれた。 病院や食料品店 ・ 雑貨店、生活に必要となる最低限の施設は近所にあったけれど、娯楽施設と呼べるようなものは何も無かった。 そこにあったのはどこまでも高く澄み渡った空と、ビックリするほどキレイな川と、そして思う存分野球やサッカーが楽しめる広大な大地。 俺は毎日、真っ暗になるまでバカみたいに外を駆けずり回って遊んでいた。 それは本当になんにも無い村だったんだ。ただ今にして思えば、そこには古き良き時代の日本の原風景のような風情 ・ 趣きがあったような、そんな気がする。 日本の原風景がある村 ―― 俺が生まれた育ったのはそんなところだった。 ■トップ
こんにちは、或いはこんばんは、もしかしておはようございます。 「 1型 〜 糖尿病 正直しんどひ 〜 」 、管理人の "俺" と言います。はじめまして。 "■アバウト" にも書いてある通りなんですが、俺は10歳の頃から1型糖尿病という病気を患っています。そんな俺も今年で30、この病気との付き合いはかれこれ20年になります。 そんな俺が、病気に関して ・ 体調に関して、日々思ったことをツラツラと書いていこうかと思っています。 とりあえず次回からは今から20年前、10歳の頃に俺が糖尿病を発症した時の様子なんぞアレコレを、まぁ時間が経っているんで多少うろ覚えな部分もあるんですが、思い出せるままにザッと書いて行きたいと思っています。 それでは、どうぞよろしく。 ■トップ |
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